The Guide of JAPAN HERITAGE TOURISM
in Okinawa
琉球王国の成り立ちや中国との関係などをしることでより面白くなる日本遺産巡り。
豆知識や歴史を学んで、スポットを訪れてみよう!
琉球王国の成り立ちや中国との関係などをしることでより面白くなる日本遺産巡り。 豆知識や歴史を学んで、スポットを訪れてみよう!
「世界遺産」と言葉が似ていて混同しがちな「日本遺産」ですが、認定されるための条件は大きく異なります。 「世界遺産」は、指定される文化財(文化遺産)の価値づけを行い、保護することを目的としているのに対し て、 「日本遺産」は、地域に点在する遺産を活用し発信することで、地域の活性化を図ることを目的としていま す。歴史的経緯や、世代を超えて受け継がれている伝承、風習などを踏まえたストーリー(物語)を文化庁が認 定したものを「日本遺産」と呼びます。
「世界遺産」と言葉が似ていて混同しがちな「日本遺産」ですが、認定されるための条件は大きく異なります。 「世界遺産」は、指定される文化財(文化遺産)の価値づけを行い、保護することを目的としているのに対して、 「日本遺産」は、地域に点在する遺産を活用し発信することで、地域の活性化を図ることを目的としています。歴史的経緯や、世代を超えて受け継がれている伝承、風習などを踏まえたストーリー(物語)を文化庁が認定したものを「日本遺産」と呼びます。
沖縄県はかつて琉球王国と呼ばれ、日本本土とは異なる、独自の文化を形成しました。「守礼の邦=礼節を重んじる国」を掲げ、訪れる外国の賓客を温かくもてなしてきました。特に、中国皇帝から派遣された冊封使節団[さくほうししせつだん]は滞在期間が約半年間に及び、その期間は、彼らをもてなすために料理や芸能に力を注ぎました。そこで供された宮廷料理や御用酒泡盛、宴を盛り上げた芸能は、今も沖縄の誇りとして県民に親しまれています。
琉球王国時代に育まれた食文化と芸能は、「世替わり」の歴史を映しながら、連綿と続く「守礼(礼節を重んじる)の心」が受け継がれています。
沖縄県はかつて琉球王国と呼ばれ、日本本土とは異なる、独自の文化を形成しました。「守礼の邦=礼節を重んじる国」を掲げ、訪れる外国の賓客を温かくもてなしてきました。特に、中国皇帝から派遣された冊封使節団[さくほうししせつだん]は滞在期間が約半年間に及び、その期間は、彼らをもてなすために料理や芸能に力を注ぎました。そこで供された宮廷料理や御用酒泡盛、宴を盛り上げた芸能は、今も沖縄の誇りとして県民に親しまれています。 琉球王国時代に育まれた食文化と芸能は、「世替わり」の歴史を映しながら、連綿と続く「守礼(礼節を重んじる)の心」が受け継がれています。
浦添から首里に王都が遷都されたことにより、貿易の拠点も牧港から那覇港に移されました。統一される以前から、アジアとの交易活動は活発に行われていましたが、大型船が着港できる那覇港を拠点としたことで、貿易はさらに盛んになり、琉球王国は大きく発展しました。当時那覇には、中国から移り住んだ華人や日本人などが生活の拠点を置き、国際港湾都市として繁栄し賑わいをみせていました。
琉球王国の時代には、新国王を任命するための儀礼を行うため、使節団である冊封使が、琉球を訪れていました。その数なんと400人あまり! 約半年の滞在期間中には、様々なおもてなしが行われました。三十数品にも及ぶ中国風の料理が振る舞われたり、色彩豊かで華やかな紅型衣装を身にまとった琉球舞踊が演じられたほか、のちにユネスコ無形文化遺産にも登録される宮廷芸能の「組踊[くみおどり]」が誕生し、披露されました。
15世紀頃、東南アジア、特にシャム(現在のタイ王国)との交易が盛んだった琉球王国は、蒸留酒とその製造技術を琉球に持ち帰り、泡盛が製造されたといわれています。17世紀、泡盛の製造は首里王府の厳しい管理の下、城内の銭蔵[ぜにくら]という施設に金銭とともに保管されていました。主に冊封使などの接待用として振る舞われていたそうです。
1879年の日本政府による「琉球処分」により、400年以上続いた琉球王国は、幕を閉じました。しかし、当時の工芸や芸能、料理などの文化は今も脈々と受け継がれています。多くの陶工がいた壺屋[つぼや]エリアのやちむん通りを歩けば、たくさんのやちむんと出合えたり、沖縄の飲食店ではおいしい泡盛や沖縄料理が堪能できます。
(主なできごと)
沖縄戦で激しい戦闘があった、浦添城跡一帯の「前田高地」は、切り立った断崖絶壁をみた米軍からは「ハクソー・リッジ(弓ノコ・絶壁)」 と呼ばれていました。この時の戦いを映画化した「ハクソー・リッジ」公開後は、海外からも多くの人が訪れ、戦死された人々への祈りを捧げています。
沖縄県浦添市仲間2丁目
ゆいレール/浦添前田駅から徒歩18分
バス停/「仲間」バス停から徒歩16分
系統/55
冊封使が訪れたときに歓待する迎賓館として使われていた識名園。首里王府は島国の沖縄を大きく見せるため、港から離れた海が見えない場所に作り、 あえて町を遠回りしながら、半日かけて案内したそうです。
沖縄県那覇市真地421-7
バス停/「識名園前」バス停から徒歩4分
系統/2 3 4 5 14
諸外国との交易に一役買ったのが、琉球に送り込まれた中国人の集団でした。彼らは、久米三十六姓、または閩人[びんじん]三十六姓と呼ばれ、 当時浮島だった那覇の港近くの久米村に定住していました。中国と琉球を往来するための航海・造船等の技術を持つ彼らが、 進貢交易に必要な外交文書の作成や通訳などの業務もこなし、裏方となり、サポートしたのです。
海外貿易では、蒸留酒と同時にそれを貯蔵する南蛮焼の甕も持ち込まれ、焼き物の技術の向上にもつながりました。 その後、1616年には、薩摩から招いた朝鮮人陶工が湧田窯(現在の那覇市泉崎)で朝鮮式技法の指導にあたり、現在のやちむんの基礎を築きました。 マカイ(碗)や皿など食器とともに、カラカラや抱瓶[だちびん]などの酒器も盛んに作られました。
抱便
泡盛を携帯する時に使用する陶器の容器で、腰につけやすいよう同の横断面が三日月形をしています。
カラカラ
急須のようなぷっくりと膨らんだ動態が特徴的な酒器。中に玉が入っていて、振ると「カラカラ」と音が鳴るものもあります。